ちょっと面白い記事を読みました。
カンニング竹山が“伝授”する「いじり」と「いじめ」の境界線 (1/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)
「いじり」と「いじめ」の違い。
端的に言うと、「いじり」は双方がwin-winな関係で、お互いに技術が必要。いじる方には愛がある。そうでなければ「いじめ」になってしまう。まあそんな感じでしょうね。
「いじられ」のオイシさに目覚めた中学時代
青木は「いじり」も「いじられ」も平均レベル(測定不能ですが)でまあまあ使いこなせていると思っています。どっちもやりますが、特に「いじられ」の効果に目覚めたのは中学校サッカー部でキャプテンをやっていたとき。
チームがうまくまとまらないときにどうしたらいいかと考えていたんですけど、偶然自分がいじられることでチームに一体感が生まれました。体操中にノリの悪い奴がふざけて「1・2・3・4、ゴリラのいさお~」と歌い出す。合唱に変わりみなが笑う。今思うとくだらないですが当時のメンバーは今までにない一体感。これだ!と思いました。
それ以降はまあまあ積極的にいじられるようになりました。変なチームのまとめ方です。顧問からは本当にいじめられてると少し思われていたっぽいですが。笑
(それがよかったかどうか分かりませんがチームは県大会でもいい結果を残しました。)
ダメなケース
そんなことを懐かしみつつ思い出したのが最近のこんな記事
教師がクラスの「いじめ」への対処を誤ってしまう理由。 | Books&Apps
「いじめってクラスの雰囲気が悪くなる、みたいに思ってる人多いでしょ」
「うん」
「あれウソ。少なくとも教師の側から見ると、むしろいじめがあった方がクラスの雰囲気がよく見えたりする」
最悪です。しかしそういう方向に向かってしまうのもなんとなく分かります。一つの対象に向けてメンバーが一緒の方向に向かっていく。そして一緒に笑う。今までにない一体感。これだけなら自分の中学時代と一緒です。
でも、先のカンニング竹山氏の記事のように、そこにはいじる側の愛も双方のwin-winの関係もいじる側といじられる側の技術も無いのでしょう。いじめです。
良い子は簡単に真似しちゃダメ
要するに何が言いたいかというと、ありきたりかもしれませんが「いじる」「いじられる」という行為は簡単にはできないもので、技術、双方の合意、win-winな関係、いじる側の愛など、多くの要素が確保できないのであれば簡単にやるなということです。そして恐らくそういう要素が未発達な小学生においては特に要注意なのかなと思ったりもします。よい子は簡単にまねしちゃダメ。
自分の中学時代も、ヘタすると「いじめ」と捉えられておかしくなかったかもしれません。まあいじりもウマかったし、いじられる側もオイシイと思っていましたが。
関連する本でも無いかと探していたらこんなの出てきました。こういうタイトルをつける技術には感心します。よく考えるなぁ。別に出世はどうでもいいですけど面白くはなりたいので読んでみようかな。